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 神々の黄昏   gotterdammerung


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指揮者 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
オーケストラ RAIローマ交響楽団
合唱 RAIローマ放送合唱団
合唱指揮
ジークフリート ルートヴィッヒ・ズートハウス
ブリュンヒルデ マルタ・メードル
アルベリッヒ アロイス・ペルネルシュトルファー
ハーゲン ヨーゼフ・グラインドル
グートルーネ セーナ・ユリナッチ
グンター アルフレート・ペル
ヴァルトラウテ マルガレーテ・クローゼ
ヴォークリンデ セーナ・ユリナッチ
ウェルグンテ マグダ・ガボーリ
フロースヒルデ ヒルデ・レッセル・マイダン
第1のノルン マルガレーテ・クローゼ
第2のノルン ヒルデ・レッセル・マイダン
第3のノルン セーナ・ユリナッチ
プロデューサー
ディレクター
レコーディング・エンジニア
録音年月日 1953年11月20日、24日、27日
録音場所 ローマ・オーディトリオ・デ・フォロ・イタリーコ
放送用録音
初出 EMI
RLS702
初出年 1972年
CD EMI
CZS7671232


レコード・メモ
伝説のフルトヴェングラー/ローマの指環。
各曲はラインの黄金ワルキューレジークフリートを参照
当録音について、上では挙げなかったが実際にはMRF34という非正規盤が初出だった。
神々の黄昏の録音は、序幕と第1幕が11月20日、第2幕が11月24日、第3幕が11月27日の、計3晩で行われた。
録音は各公演前日の午前と午後、当日午前の3つのリハーサルと、本番の公演が録音され、翌日これらのテープからフルトヴェングラーとディレクターが放送用テイクを選んだ。
発売に至る経緯
1952年の春、RAIローマでフルトヴェングラーはワルキューレ第1幕のみの演奏会と、神々の黄昏第3幕のみの演奏会を持ち、その結果に大きく満足したと伝えられる。そこから、指環全曲を放送用に制作する企画が生まれ、明けて1953年に舞台を伴わない演奏会形式での上演として実現した。
ラインの黄金は全曲通しの一幕もので、10月26日一晩で演奏されたが、他の公演は一幕につき一晩の公演で、最終の神々の黄昏第3幕の11月27日まで、四部作全曲が約一ヶ月の間にわたって上演された。聴衆には時間厳守と風邪ひき厳禁が条件とされた。
50年スカラの指環をすでにRAIは収録していたはずで、よくもこの企画が成立したものだと驚く。スカラでは全曲舞台上演であったため、大きなカットが2カ所、細かいカットがかなりの部分にあったと伝えられる。それらが今企画の理由であったかどうか、知るすべは無い。

1952年、EMIは破棄寸前まで進んだフルトヴェングラーとの関係を改善するために、指環全曲の録音を約束した。(ウォルター・レッグをフルトヴェングラーから遠ざける約束もあった)

フルトヴェングラーはRAIでの指環をそのまま録音することをEMIに提案したが、EMIはウィーン・フィルかフィルハーモニア管での制作を希望し、1954年にワルキューレのみが第1段としてウィーンで録音されたが、これが巨匠最後の指揮台となった。

録音は各公演前日の午前と午後、当日午前の3つのリハーサルと、本番の公演が録音され、翌日これらのテープからフルトヴェングラーとディレクターが放送用テイクを選んだ。
編集されたテープはその後ディスクにコピーされ、保管された。おそらくパデレーニが使用されたであろう。パデレーニについてはスカラの神々の黄昏を参照

フルトヴェングラーの死後、EMIはRAIと交渉に入り、すでに存在するワルキューレ以外の3っつの楽劇を発売しようとしたが、RAIは4部作すべてを一括することを主張し、企画は頓挫した。
また、ヨーゼフ・グラインドルとヴォルフガング・ヴィントガッセンの二人が、当時グラモフォンの専属であったため、DGとの交渉にも大きな時間を要した。結局フルトヴェングラー未亡人の懇願により、やっとDGから発売の許可を得ることになる。
しかし、この時点ではEMIでは発売を見送る気分に支配されていた。この雰囲気が変わるのは、フィリップスがこのRAIの指環の発売を決定した時で、1971年末であった。

EMIではRAIのディスクから再びマスターを起こし、イコライジング等を施し、ついに1972年、世界各国のEMI系列から販売され、巨匠の指環全曲が正規盤として公になった。